大好きだけど、大嫌い。

「可愛さ余って、憎さ百倍」という、ことわざもあるように、

好き過ぎたばかりに、その対象が自分の思い通りにならなかった時に

意地を張ったり、拗ねたりして、

 

「え、別に好きじゃないし!てか、逆に嫌いだし!!」

 

とか、言っちゃったこと、誰しも経験があるのではないでしょうか。

別に、これは恋愛関係に限ったことではなくて

 

かの有名な、スラムダンクの名シーン。

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膝の怪我が原因で、大好きなバスケを出来なくなり、反動で荒れていた三井君。

他校の不良を引き連れ、バスケ部を廃部に追い込もうとするも、

安西先生の顔を観た途端、忘れていたバスケ愛を思い出す・・・

 

感動的でしたね。

 

こういうことって、みんな結構あるんじゃないかなぁ、と思うんです。

 

私も記事に書きましたが

 

lakotoya.hatenablog.com

 大好きだったはずの、お菓子づくりが、

儲けや、義務や、他人にコントロールされることで、苦しく辛いものになってしまった・・・

 

よく、「好きなことは趣味にして、仕事にするものではない」

と言われる所以も、まさしくこういうことだと思うのです。

 

数年間

「だって、もうやりつくしたから、やりたくないし、出来ないもん!

 ほんと、お菓子作るとか無理無理無理~~~!!」

 

と言っていた私も、最近、ちょっとしたキッカケから作るようになり、最初こそ

 

「何かめんどくさいな~~」

 

とか、言ってたのだけど、気が付いてみれば、

 

「あれ?何か楽しくなって来てる?」

 

作りたい時に、作りたいものを、好き勝手に作るのは楽しいんです。

思い起こしてみれば、子供の頃、誰に頼まれた訳でもなく、命令された訳でもなく、

「ただ楽しいから」やっていたことなんですよね。

 

店を閉めてから、やりたいことなんかない、とずっと思っていたけれど、

何もしない、という日々を過ごしてみて気付けたことでした。

 

諦めてしまったり、忘れてしまったそういうこと、ありませんか?

 

お菓子作りの他に、好きだったけど、自分に自信が無くてやめてしまったことや、

組織に違和感を感じてやめてしまったものもあります。

 

まずひとつめ、子供の頃から好きだった、絵を描くこと。

私が得意だったのは、写実的な絵でした。

進路を決めなければいけないとき、美術の方に進みたい気持ちもありましたが、

まぁ、到底親に認めてもらえない、というのもあったけど

自分が不得意な抽象的な分野で、才能に限界を感じ、絶対行き詰まるだろう、と自分自身で制限してしまいました。

自分よりすごいと思うものを見て、諦めてしまったんですね。

 

そして、もうひとつ。

ケーキの細工が得意だった私は、一度目の離婚の後、マジパン細工と似ている粘土細工(クレイアート)を習い始めました。

細工では入賞経験のある私ですから、他の人より上達も早く、先生も目をかけて可愛がって下さいました。

ここで、出て来るのが、私の苦手なアレです。

 

女の嫉妬。

 

他にも、先生の教室運営の大変さを目の当たりにしたり、学校と同じですから、カリキュラムがあって、自分の思い通りのものが作れなかったり(どうしても、先生の好みに変えられてしまう)

協会の在り方とか・・・違和感を感じることがたくさん。

そして、途中で再婚することになって、店をやるために通う事も出来なくなって、辞めざるをえませんでした。

 

こんなふうに、大好きだったけど、辞めてしまったことって、結構あると思うんですね。

自分の大好きなもので、人に認めてもらえないのは、ものすごく怖い事だったりするし、

何かひとつに絞って、情熱を傾けて継続しなければいけない、という思い込みがあったり。

嫌な事を無理にする必要は無いと思うけど、昔やってたけど・・・みたいなもの、

ちょっと気が向いたときに、このお正月休み中に取り組んでみても良いかもしれませんよ?

 

もしかしたら、スラムダンクの三井君のように、大活躍するかも!!

 

私も、お菓子作りと並行して、辞めてしまっていたもの、どんどん表現して行こう!と思います。

こうやって、公に宣言することで、自分の尻を叩きます(笑)

2016年最後の新月に振り返る一年。

2016年という年が、まもなく終わろうとしています。

この年は、今までになく激動だった人が多かったのではないでしょうか。

このテーマで、昨日ブログを書こうとしていたのだけど、何から書いたら良いのか

頭の中で考えていたら、どんどん書けなくなってしまったので、

まとまりがなくなると思うけど、とりあえず、思いつくまま書いていこうと思います。

 

まず、一番に実感していること。

 

以前より、太陽や月、星まわりを意識するようになりました。

facebookのフィードでホロスコープを読む人達の記事を目にする機会が多く、

それらを読むようになって、それぞれの解釈はあっても、大筋は一貫していることがわかり

自分の体験していること、感じていることとも一致していると思ったんです。

潮の満ち引きや、動植物たちの行動が、多大に影響を受けていることを思えば

その一部である人だって影響を受けているのは当然のことです。

自然と繋がっていた古代の人達も、天体の動きを読んで生活していましたしね。

だから、高次のなんちゃらのメッセージを降ろします~なんて言ってる人より

(中には、もちろん素晴らしい人もいますよ)よっぽど信頼できると、私は思っていて。

そういう宇宙的な動きによると、今年は大きな転換点で、古い価値観だったり、

社会だったり、人間関係から脱却する時期だったらしく、

引越、転職、離婚などを経験する人も多かったのではないかと思います。

 

私は、と言うと

 

流行を先取りするタイプなので、昨年、離婚をしまして。(笑)

正式に手続きが終わったのは10月でしたが、旦那さんが出て行ったのが8月。

ほぼ時を同じくして、札幌に友人4人と共有スペースとするための部屋を借りました。

あと、経済的に困窮していた友人に、家賃をどんどん滞納するくらいならうちに住めば良いじゃん!

と言って、居候させてあげることに。

私は、職には就いて無かったけど、まだ貯金が少々ありました。

札幌に部屋を借りる際、他の友人たちはお金が無かったので、初期費用は全額私が出しました。

確か30万くらいかかったかな。

私は、お金は、その時ある人が出せばいいじゃん!と思っていたし、

みんながそこで、ワークショップやったり、セッションやったり、セミナーやったり

自分のやりたいことを協力しあってやれたらいいな、と思ったんです。

 

でも、早々に一人が感情的なもつれ?から離脱し、その時のショックでもう一人も離脱してしまいました。

結局、二人になってしまったのですが、今年の3月くらいまで私が一人で家賃を負担していました。

その家賃をペイ出来るほどの収入もなく、経済的にも苦しくなって、今年の10月にその部屋を手放すことにしました。

一人の友人は、かかった費用を毎月少しずつ返してくれていますが、

部屋を撤去するときの荷物の運び出し、掃除も、一人でやっているときは、

さすがに「私はいったい、何をしているんだろう?」と何だか悲しくなりました。

 

そして、居候していた友人。

彼女は所持金も無かったし、借金も抱えていたので、引っ越す時の費用も出してあげたし、

家賃も、食費ももらっていませんでした。

うちに居る間に、生活を立て直せたら、と思ったんですけど…

1年近く経って、状況は何も変わりませんでした。

お互い大人だし、私は一切干渉せず、何も言いませんでしたが、

果たして私のやっていることは、彼女のためになっているのだろうか?

彼女の自立の妨げになっているのではないだろうか?  

と思い始め、私もいつまでも、お金が続くわけでもなく

「このまま、うちに居るのなら、いくらかお金を入れるか、別の道をとるのか、考えてもらえないかな?」と伝えました。

結局、彼女は出ていくことになったけど、

直後にFBに「洞爺の人達には挨拶もなしでごめんなさい。でも、礼儀とかしきたりとか、くそくらえです」

と投稿しているのを見て、とても悲しくなりました。

 

今まで、こういった出来事も当事者の人たちが傷付くと思って、公言してこなかったけど、

吐き出さない限り、私の中で消化仕切れない出来事だと思いました。

だけど、これは誰が悪い訳でもなく、ただそういう事実があった、というだけで

何を感じるのかは、それぞれの問題なんだと思います。

 

私は、人に与えなければ、尽くさなければ認められない、と思っている人間だったので

私がしたくてしたことで、与えさせてもらったんだ、と今は思うし

楽しい事もいっぱい共有したし、うちに居候してもらって愛犬の面倒をみてもらったおかげで、

私は安心して行きたい所に行くこともできました。

そういう面では、たくさん感謝もしているのです。

 

ただこれからは、それぞれの居心地の良い場所で自分らしく生きる、だけのこと。

この経験を踏まえて、この先どう生きたいのか?ということなんだと思うし

受け入れて「赦す」という事を、試されているのだとも思います。

 

そして、私はウン十年ぶりに、ひとり暮らしになりました。

 

しばらくすると、誰かと暮らしているときは、あんなにひとりの時間が欲しいと思っていたのに、

ものすごい孤独感と寂しさに襲われるようになりました。

考えてみれば、私は、母親に本当の親子じゃないとカミングアウトされた日から、

家庭は自分の居場所じゃないと思っていたし、

いわれのない苛めを受ける学校も居場所ではないと思っていました。

そのころから、ずっと孤独感や寂しさを抱えていたのでしょう。

でも、その感情を感じるのは辛いから、寂しくならないように色んな所へ出かけたり、

仕事に打ち込んだり、恋愛体質だったりしたのだと思います。

 

このどうしようもない孤独感と寂しさを抱えたまま、前には進めないのだとわかりました。

そして、この感情を感じ切るには、洞爺は最適な場所でした。

洞爺は不思議な場所で、「別に何もしなくてもいいよね~~」と思わされる

ある意味、やる気を失わせる危険な?場所なんです。

どっちにしても、繁華街も無ければ、人も少ないし、寂しさを紛らわすことなんか出来ないですしね。

 

自分の孤独感や寂しさと、とことん向き合い感じ切ることは、想像以上に苦しいことでした。

何度も死にたくなりました。

だけど、本当に辛くなったときは、見計らったように、何故か友人が連絡をくれるのです。

本当に大変なときに寄り添ってくれる人が、いてくれることに気が付きました。

そして、いつのまにか、あんなに辛かった感情が急にフッと軽くなる瞬間がありました。

 

私は、ひとりじゃない!

 

私の感情は、私の中にあるもので、私以外が感じることは出来ないのです。

ずっと感じないように、見ないないようにしていたもの、それを見つけるのも自分以外にはいないのです。

外側に答えを求めても、一生答えは見つからないし、誰かに助けてもらうことも出来ません。

長い間、生きている間に奥底に溜めてしまってものを、出し切って(感情の解放)

持っている意識を軽くしなければ、新しい世界は開けないのだと思います。

意識が重い=周波数が荒い 

意識が軽い=周波数が細かい    と言う事です。  

 

今年の下半期は、そんなふうに悶々と過ごしましたが

やっと誰に依存することもなく、「自分」を生きられるような気がしています。

新しい年は、キラキラとした自分を表現していこう!と新月に誓いたいと思います。 


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誰が作ったものなのか、誰に作ったものなのか。

札幌では、50年ぶりの大雪で、普段車で30分のところが4時間位かかるらしいです。

私の住む洞爺は、ほとんど積雪が無いし、そもそも車も人も少ないので渋滞やストレスとは無縁です。

都会で消耗する人々は、かわいそうですね。

いったいどちらが不便なのか・・・?

 

さて、クリスマスも終わり、ケーキ屋さんもホッとしているところでしょうか。

 

私も20代前半は、洋菓子業界で修業していました。

その頃は、好きな仕事に就けて、やる気満々、情熱に満ち溢れていましたから、

誰よりも早く店に行き、一番最後に店を出る感じでした。

自分の仕事(下っ端の仕事)を少しでも早く終わらせ、先輩の仕事を手伝い、見て盗むために。

仕事が終わってから、居残り練習をしてスキルアップするために。

ケーキ屋さんて、なんか可愛い!とか見えるかもしれませんけど、女性にとってはかなり過酷な職場です。

20~30キロある粉や砂糖の袋を持ち運んだり、大量のカスタードを炊いたり、クリームを立てたり。

床は水を流せるようにコンクリートで冷えるし、そこでの長時間の立ち仕事は、身体にも良くはないですよね。

 

それでも、毎日意地悪をする先輩(男)に泣かされながら、同期で入った女子がみんな退職していくなか、歯を食いしばって頑張りました。

そして、細工物のコンクールなんかにも出品して、入賞するようになり、男性優位の職人の世界で、女性で初めて中間管理職にまでなりました。


初めてコンクールに出品して、入賞した作品。

大分年月が経っているので、現在はもっとレベルアップしていると思うけど。

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これ、全部食べられる材料で作ります。

そして、こういったコンクールに出品するために作業する時間は、相当時間がかかるので、残業手当は出ません。

追い込みの頃になると、寝ないで製作したりします。

 

 

これは、クリスマスの特別バージョンケーキ。
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こういったコンクールなどで入賞することは、ステータスとなり、「スゴイ人」になれます。

有名なパティシエが作ったケーキ、という付加価値、ブランド力がつきます。

(有名になったパティシエのお店では、その本人はほとんど作っていませんけどね!)

 

 

だけど・・・

 

それって、味と関係ないじゃん!!

 

細工が精密に、綺麗に作れるからって、美味しいものを作る舌と情熱を持っている訳じゃない。

 

 

もうひとつ、私が理不尽に思ったことがあります。

それは、この業界に限らず、どんな仕事をしていても感じることだと思うのですが、

 

人によって生産性が違うということ。

製品の出来栄えが違うということ。

 

つまり、同じ時間の中で、仕事が出来る人はたくさんの製品を作るし、出来栄えも良いのですが、

出来ない人は、時間内に仕事を終わらすことが出来ないで、残業したり、出来上がった製品もいまいちだったりして、結局、仕事が出来る人が尻拭いすることになったり。

もっと酷いと、失敗を繰り返して、材料を大量に無駄にして損害を与えることもあります。

 

なのに!

 

なのに!

 

給料一緒!!!

 

やりがい無くすよね・・・

 

 

そして、働いていた店が拡大するために、工場を新設したりして、ますますお客様の顔も見えなくなり、どんどん自分は歯車のひとつなんだ、とも感じて、理想とかけ離れていく現実。

かといって自分で独立するほどの資金力もなく(職人の給料って驚くほど安い!)

まして、借金してまでやる勇気も情熱もなく

色んな絶望感を抱えながら、この業界を離れてしまいました。

 

 

年月は流れ

 

結婚、出産、離婚を経験し

 

再婚することになったとき

 

本意ではなかったけど、何故か夫婦でケーキ屋さんを開業することに。

 

旦那さんは、もともと建設業界の管理職で、まるっきりのど素人。

私が出来ない経理とか、経営に関しては得意分野だからやってくれたけど、自分の知らないことに関しては、新たに勉強することもなく、教えようとすると逆切れする始末で、私におんぶにだっこでした。

そして、お店の将来も、家族の生活も、私の肩にズシリとのしかかってしまったのです。

 

お店の利益を第一に考えると、売れるもの、利益の出やすいもの、そして作り手が私だけですから、生産性の上がるもの、を考えないといけません。

 

ひとつの商品を生み出すって、どんなものにするかアイディアを絞り出して、レシピを考えて、イメージ通りの味・形を再現するために試作を繰り返して・・・かなりの労力、エネルギーを使います。

そうやって生み出した商品を、価格競争の中で、なるべく安く売る訳です。

それを買って下さるお客様は、確かに有り難いのですが、食べログやブログなどで、好き勝手に批評する人もいます。

 

10年間続けて、プライベートでも様々なことがありましたが、

本来好きだったはずの「お菓子を作る」ということが、辛く苦しいものになっていました。

 

そして私は、店を閉め、洞爺に移住することを決めました(だいぶはしょった!)

 

 

やりつくして燃え尽きてしまった私は、お菓子が作れなくなってしまいました。

料理を作ることも、かなり嫌でした。

それでも、唯一頑張れたのは、主催や共催をしたリトリートやイベントでのご飯やお弁当を作ること。

要するに、誰が作って、誰が食べるのか、がわかっている関係なんです。

 

「食べる人の事を思いながら心を込めて作る。」ということです。

 

 

商売やっているときにも、

同じレシピでも作り手によって味が全然違うということがわかっていたので、

私が作ったレシピを公開することも平気でした。

それと、高い(質の良い)原材料を使って美味しいのは当たり前で、いかに普通の材料で美味しく出来るのかが、腕の見せ所だということ。

(メディアの取材を受ける時は、こんなすごい材料を使っている!という謳い文句を欲しがられたけど 笑)

 

つまり、作り手、「誰が作ったのか」が大切だということです。

 

わかりやすいのが、アーティストかな。

テクニックがどんなに素晴らしいからといって売れるわけではないですよね。

例えば、今時、歌を上手に唄える人なんか五万といるけど、伝わる歌、人の心を打つ歌を唄える人はそんなにいない。

綺麗に整った絵を描ける人はたくさんいるけど、感動させられる人はそういない。

(有名だからといって、感動した!とか言っちゃう人もいるけどね)

あと、エステティシャンとか。

太っていて不潔な感じのする人に、綺麗にしますよって言われても、説得力ないし

やっぱりスタイルの良い美しい人を選びたいもんね。

 

何が言いたいかというと、料理でもお菓子でも、誰が作ったものなのか?ということが、

もっと大事にされても良いんじゃないかな?って思うんです。

現在の大量生産・大量消費の経済システムでは、どうしても利益重視になっちゃうから

難しいんだろうけど・・・

食べる人、作る人、お互いに認識出来ると、もっと心を込めたり、有り難かったりするんじゃないかな。

 

ものづくり全般にいえることだと思うんだけど

作り手が誰なのか、どんな心意気で作っているのか、って大切だと思うんです。

特に食べ物は、自分の身体の中に入れるものだし、作り手のエネルギーがダイレクトに伝わるんじゃないかな。

子供にとって、母親の愛情がこもったご飯に勝るものがないように!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全部、自分が決めている。

昨日に引き続き、クリぼっち続行中です!

 

私の、この状況。

 

「ああ…   みんなは家族や恋人同士でご馳走を食べたり、仲間でパーティーをして過ごしているのに、私はひとりぼっち…寂しいなぁ」

と思うのか

 

「人に気を使わず、好きなときに好きなものを食べて、ゴロゴロしていても誰にも文句を言われず、のんびり過ごせていいなぁ」

と思うのか

 

どっちでも良いのです。

 

 

悲劇のヒロインになろうが

脳天気なぐうたらになろうが

 

自由なんです。

 

どちらを選ぶのも自分次第。

 

 

私はと言うと、先程お散歩に行ってきて


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今日は、雲がとても綺麗で、

ほとんど毎日見てるのに、また感動して。


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この美しい景色を眺めていると、

自分もこの美しい自然の中の一部なんだなぁ

と思って、自己肯定出来るのです。

ちっぽけなことなど、どうでも良くなる。

 

 

同じ場所でも、毎日表情が違う。

 

生きている限り、諸行無常であって、

毎日、朝起きて、

仕事行って、帰って来て、

ご飯食べて寝る、みたいな

同じルーティンをこなすだけの人生は

どこか自然に反してる気がするんだけど

 

それも、全て自分が決めること、なんだよね。

 

 

 

 

クリスマスイブに思うこと。

4ヶ月もブログを放置してしまいました。

 

色々考えていると、どんどん書けなくなるので、まずは再開します!

 

今日はクリスマスイブです。

 

自慢じゃないけど、クリぼっちです!!

 

一般的には、

クリスマスを一人で過ごすとかって、可哀想とか寂しそうなイメージなのかな?

そりゃあ、ラブラブの恋人同士で過ごすって素敵なことかもしれない…

 

それは否定しません。

 

でも、でも、

 

数年前まで、私は夫婦で洋菓子店を営んでいました。

(現在は、店も旦那さんも捨ててしまいましたが…笑)

洋菓子店にとってクリスマスは一大イベントです。

一年で一番疲れる時期です。

 

なので、クリスマスは大嫌いでした。

 

そして、主婦にとってもクリスマスを含め、年末年始は憂鬱な時期なのではないでしょうか。

 

 

子供が冬休みで毎日家にいる→毎日昼食を作る→一日中ご飯を作ってる気分になる。

クリスマスのご馳走を作る。

クリスマスプレゼントで散財する。

年賀状を書く。

大掃除をする。

年越しのご馳走を作る。

お正月の準備をする。

お年玉で散財する。

これに、

行きたくもない夫の実家に行く、なんていう人もいるかもしれません。

 

今でこそアレですけど、

私も昔は何でも世の中のルールや常識を、キッチリ守るタイプでしたので、

おせちなんかも、ほとんど手作りで作っていた時もありました。

 

だから、その時に比べると、上記のことを一個もしなくて良い今の状況は

メチャクチャ

しーあーわーせー!!

ほとんどTVも観ないし、外に出掛けても誰にも会わないし、クリスマスの雰囲気は何処にもなく、

いつもと変わらぬ景色が拡がっているだけ…


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今年は、札幌が50年ぶりの大雪とかで、大変らしいんですけど、

洞爺は申し訳ないくらいに何の影響もなく穏やかで



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こんな景色を見せてくれることが、この上ないクリスマスプレゼントだなぁ〜と思ったり。

 

 

そしたら

 


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ここんとこ見かけなかった白鳥さん夫婦が

 


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今日に限って、クリスマスデート?

 

 

見せつけてくれました…

 

 

結局、

 

クリスマスが楽しいのは、

 

プレゼントがもらえる子供たちと、

 

独身カップルってことかな。

8月24日のお散歩。〜ひとつとして同じものはない〜

ずいぶんと久しぶりの更新になってしまいました。

お盆期間は、観光地である洞爺湖は人も多く、どこかへ出かけるにも道路も混んでいるので、ひたすらひきこもり。

そのあと、台風がやってきて(この辺は、ほとんど影響はありませんでした)なかなか日課のお散歩もままならず…

途中、満月もあって、その影響もあったのかなかったのか?

(でも、はるか昔の人々は、カレンダーや時計もなかった訳ですから、太陽や月、星などの天体から色んな情報を得ていたのだろうし、月の満ち欠けで、潮の満ち引きなんかが起きていることを考えると、ほとんど水で形成されている私達人間も、影響を受けているのでしょうね。)

 

そんな感じで毎日孤独と向き合い、途中アップダウンはあっても、ど~~~んと落ち込んで、ほぼ長~~いトンネルに入っていました。

 

そろそろトンネルを抜け、ブログも書けそうなので、今日は、その時のことを記事にしようかと思ったのですが、朝のお散歩に行ったときに色々インスピレーションがあったので、そっちを先に書こうと思います。

 

      ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ 

 

元々、この世界はひとつでした。

それをわざわざあらゆる物質に分離させて、特に人間には、強烈な分離意識まで植えつけられました。

 

それは、なぜか?

 

あらゆるバリエーション、多様性を知りたかったから。

 

木々の葉っぱが一枚一枚違うように。

あれだけ膨大な量の雪の結晶が、ひとつひとつ違う形であるように。

同じ指紋がひとつも無いように。

 

私達人間は、全て違う個性、特性を持っているのです。

 

だから、私達が存在している意味は、ひとりひとり違う個性の輝きを存分に発揮すること。

あらゆるバリエーションの情報を届けること。

 

だけど、一部の人達に洗脳され、私達は「普通」とか、「常識」とか、「みんなと同じこと」が良い事だと思わされてしまいました。

誰かが決めたルールに従い、同じような服を着て、決められた仕事をして、何の疑いもなく、何も考えず、毎日同じことを繰り返すことが、「安定」していて「安心」なのだと。

そして毎日垂れ流される情報を真実だと信じ、自分の感覚で感じることを忘れてしまった。

 

誰かが決めた枠の中で生きる、誰かが決めたレールの上を歩く、それは楽なことなのかもしれません。

でも、それは本来私達が、この世界に存在している目的を、忘れてしまっていることなのです。

 

自分が素晴らしいと思う人、やり方を真似するのは悪い事ではありませんが、それをそのまま実践してしまうのは、ただのコピー人間です。

良いと思ったものを、勉強する、取り入れる、その上で、それをどれだけ自分のオリジナルとしてカスタマイズできるか、が大事です。

 

そうやって、それぞれが個性を輝かせ、その多様性をみんなが尊重し認め合う、ということこそが、ある意味「ひとつになる」ということなのではないでしょうか。

 

 

今朝の洞爺湖(日付がかわっちゃったけど)
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やりたいこと、ほんとにないの?

ワタシ、やりたいことがみつからないんです・・・

自分のやりたいことが、わからないんです・・・

 

って、よく聞きますよね?!

 

かくいう私も、少し前まではそうでした。

 

これね、多分、幼い頃は、みんなやりたいことしかやってなかったと思うんですよ。

よほど危険とかで、大人に止められない限り。

思いつくままに、その瞬間その瞬間「やりたい!」と思ったことを、やっていたと思うんです。

 

「俺も、クウ、ネル、アソブ、やりたいことしかやらないからな!」
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でも、成長するうちに、こうした方が親に愛される、褒められる、とか

学校で教育されるうちに、こうした方が「良い」学校に入れる、「良い」人生が送れる、とか

こうした方が、社会的に認められる、とか

自分の気持ちとは別の動機で、行動を決めるようになる。

 

そうやって長年生きてくると、親や社会の基準ではない、本来自分がやりたかったこと、好きだったことすら、忘れてしまってわからなくなる。

そして、自分のやりたいことで、社会的に影響力を持ったり、経済的に成功している人を見て、自分もやりたいことを見つけて、みんなに認められる存在にならなければいけない!とか思っちゃって。

 

あのね、やりたいこと=社会的成功  じゃないですよ。

 

人それぞれ、得手不得手というものがあって、役割がありますから、輝く場所が違うんです。

たまたま、表に立って目立つ人はいますけど、私達の知らないところで、自分の好きな事をやって、楽しく暮らしている人はたくさんいるんです。

 

みんな、毎日の生活の中で、やりたいこといっぱい叶えてますよ。

 

今日は映画が観たいと思って、観た映画にとても感動した!とか

無性にラーメンが食べたくて、食べたラーメンが超美味しかった!とか

大好きな人に会いたくて、デートしたらとてもHAPPYな気持ちになった!とか

 

今までやったことがなかったことを、たまたまやってみたら、思いがけずハマってしまって、それがやりたいことになった、なんてこともあるかもしれません。

 

今、人生をかけてやりたいことがないとダメ!みたいに思ってる人が多いけど、本当は日々の小さな「やりたい」を叶えていくだけで良いのではないかと思うんです。

長年かけて、自分のやりたいことすらわからなくなってしまっている人は、特に、小さな「やりたい」を積み重ねていくうちに、本来やりたかったことを思い出すかもしれませんね。

 

「ダメな自分」なんてなくて、いつかベストなタイミングで出会うべきものに出会う、と信じて、毎日の「やりたい」を選択していきましょう!

 

「アタチは、何にも考えてないのよ!」

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